石見銀山とは何か。

ユネスコが指定する世界遺産の登録リストに載っているのが島根県大田市に位置する石見銀山
少し前に、イコモス(国際記念物遺跡会議:ユネスコの諮問機関)が登録延期の勧告をしたことで世界遺産登録に向けて若干後退した感があるのが現状。

先日、大田市の担当者がユネスコ本部(パリ)を訪れ、日本政府代表の近藤特命全権大使と協議してきたらしい。


ところで、この「石見銀山」。イコモスの指摘にもあったように、その価値などが非常に分かりにくい。

簡単に言うと、世界遺産になるほどのすごいものなのか?という疑問が付きまとうということ。
自然遺産のように圧倒される風景美があるわけでもなく、かといって産業遺跡としての素晴らしい環境、雰囲気がそこはかとなく伝わってくるわけでもない。
たしかに、町並みは古く坑道は残されているが、「これのどこが世界遺産級なの?」という印象は拭えない。


なので、改めて石見銀山についてお勉強。

まずはWikipediaから石見銀山の概要。

石見銀山(いわみぎんざん)は戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国指定の史跡に登録された。

時期的には、1500年代から1600年代といったところか。
そして、当時日本最大の銀産出量を誇っていたことが分かる。
ちなみに、当時の世界における銀の3分の1が日本から産出されており、そのほとんどを石見銀山から産出していたらしい。


次に、開発の経緯。

本格的に開発したのは博多の商人、神谷寿貞である。海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。

当時の領主は大内氏だったということが分かり、大内氏が最初に銀山を領有していた。
そこに中国地方の戦国大名が銀山領有権を争った歴史が始まる。
大内氏、尼子氏、毛利氏が争い、最後は豊臣家が接収する。
戦国大名がこれほど銀山領有権を争ったのにはやはり軍資金などに大きな影響を持っていたからではないか。

ちなみに、Wikipediaによれば領有していた大名は銀を背景に諸外国と貿易を行い、火縄銃を輸入していた可能性もあるらしい。


江戸期の銀山。

関ヶ原の戦い後、徳川家康は石見を幕府直轄領とし、初代銀山奉行として大久保長安を任命した。
<中略>
1731年(享保16年)、大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。


おそらく、地元大田市では初代奉行である大久保長安よりも、19代代官である井戸平左衛門の方が有名ではないか。
「いも代官」の逸話は市内の小学校ならおそらくどこでも教えることだろうと思う。そして、このいも代官はそのネーミングと相俟って強烈に子供たちにインパクトを与える。
そうなると、子供の頭の中では「石見銀山=いも代官」ということになる。実際、僕はそうだった。

つまり、石見銀山の価値とは、世界で3分の1を占めた日本の銀のほとんどを産出していたとか、その銀を背景に諸外国との貿易が行なわれたとかではなく、そこで生きた人々の魂、生き様にあるのではないか。

僕はそう考える。


最後に、現在世界遺産暫定リストに登録されている日本の世界遺産候補は9つ。

小笠原諸島を除くとすべて「文化遺産候補」であることが分かる。
しかし、富士山が文化遺産候補とはこれいかに。


なんにしても、世界遺産登録=観光振興というステロタイプな思考パターンはやばい気がする。
副次的に旅行者は増えるだろうが、そもそもの目的はこちらから引用するとこうなる。

世界遺産リストの作成目的は、地球にある素晴らしい自然や文化を、国や民族の区別無く、全地球人のものとして守っていこうというところにあります。特に消滅や崩壊の危機に瀕する自然や文化財を守り、未来に受け継ぐというのが最大の目的と言えるでしょう。


そう。観光振興だけの一面的な見方はやはり間違ってる気がする。

最後に、危機にさらされている世界遺産リスト
世界遺産に登録されながらも、その保全が危機に瀕しているリスト。